鈴雨のこと
  〜カラダ篇

8歳頃JRA(若年性関節リウマチ)を発症し、

小学4年生の頃には手指の変形が始まっていたようです。

足が痛くて1〜2日学校を休んだり、プールの授業は見学だったり、

3・4年生のときの遠足に行けなかったこと、の覚えはあります。


しかしなぜか幸いにも、いわゆる「リウマチの激痛」を知らぬまま、

学校生活にも何一つ不具合を感じることなく、

ノーテンキな性格のおかげもあって

普通に楽しく子供時代をすごし・・・

中学3年のときに、医師から1ヶ月学校を休むよう言い渡されてお休みし、

たぶんそれ以後、週1回6時間目を早退しシオゾール注射に通いながらも、

高校、専門学校と、普通に多感な青春時代を過ごして、成長。

この頃は、飲み薬は処方されていませんでした。


子供時代の投薬内容はまったくわかりませんが、

炎症が起きているときに痛み止め、あと適宜ステロイドが処方されていたのでは?

が、痛くなくなれば薬を飲むのは嫌だし忘れる。

ランドセルの底にたまった薬を母の目から隠していたことは、よく覚えています。

 

二十歳で就職し、自然と病院から足が遠のいてしまいました。

そのまま、20代は病院通いも投薬も皆無の期間が、8年間ほど。

(※もちろん民間療法も一切しておりません)

寛解どころではなく、当時の医療としては治癒の領域だったようです。

発症からの年月,進行具合,骨破壊の強さを鑑みると、あり得ないことらしいけど。

と気づいたのはつい最近で。

とにかく、手の変形と外反母趾はあれど痛みはなく、元気一杯でした。

実を言うと当時の私、リウマチなんてそんなものだと思っていたのです。

なにしろこの時期は、お仕事の夢もかなって自己実現。

心身の限界までがんばった最高の充実期として、満足感に満ちております。

しかしついに三十路を前に炎症が出て体調急降下。

たぶんストレス。仕事の立場上、いつしか責任感にがんじがらめとなっていて。

30歳目前の春、体力的限界を感じて、退職。

この頃に久々の受診をしたわけですが、医師には、

「今までの間、漢方薬ぐらいは飲んでいたんでしょう」と決めつけられ・・・

事実をついに信じてもらえなかった…

まあ、この病気がどんなものであるかをよくわかった今となれば、納得ですが。


その当時にはすでに転居していたので、

中学時代からの主治医に紹介状をお願いし、近くの大学病院を受診しました。

電車とバスを乗り継いで、長い待ち時間でぐったりでした。

炎症などのほか免疫系・・リウマチ関連のさまざまなチェック項目の検査結果は、

医師も驚く(むしろ興奮している様子!)桁はずれの数値が並んでいました。

「これは!リウマチが燃え盛ってる状態ですよ!!!」

「あなた、本当ならそんなふうにしていられる状態じゃないですよ」

「まぁ、あなた自身がそうしていられる程度なら、薬は最低限で様子見ましょうか」


よく考えずに「はい」と返事した結果、出された薬は

効いてんだか効いてないんだかわからないカルフェニールをそれも最低量と、

単に鎮痛のためのインドメタシン座薬のみ。



そして急浮上。

環境が変わり、責任感から一挙に解放されたことが大きかった。

3ヵ月後の検査結果は、すべて正常域。

またもや医師は驚愕、あたふたした様子で即再検査するも結果は同じ。


「こう言ってはなんですが、、、」

「医学的には、これまでの投薬でこんなに良くなるはずはないんです。」

「まぁ、とにかく、元気になってよかったです。」


この時のことは、鮮やかに覚えています。

驚きとともに、神に感謝の涙しました。

ということで、投薬は今までどおり、月1回の受診は続けました。

さて、すっかり元気になり、車の運転免許取得を思い立ちました。

当時まだオートマ車限定免許など無く、手指の力に不安あり。

それに、少しでも楽に取りたい!と、免許センターに相談しました。

が、喜ぶべきか悲しむべきか・・・シミュレーションチェックの結果

「大丈夫、普通に取れますよ!」

開き直りついでに、合宿教習に山形へ。楽しかった。。

秋には、印刷業界という未知の職種の製版課に再就職。

ロットリングペンとカッターナイフを最高の相棒に

版下フィニッシュ(図表作成や校正等)、フィルム加工、刷版、、

切った貼った撮ったの、職人的楽しいお仕事を始めました。

が、2年後。また急降下。

今度は骨破壊が進み、手術ラッシュとなった30代でした。

34歳のときに身障者手帳を取得。

ヒトとしてそれなりに錬れて丸くなった時期でしょうか。


そして30代も終わる頃、発病から約20年にして

初めて「リウマチの激痛」と「全身固まっちゃった状態」を経験。

「こんなにつらい病気だったのね・・・」

と、かなりの衝撃を受け、認識を新たにしたのでした。

その後も、年に2〜4回ほどのペースで陥るでしょうか・・・

(特に下痢が引き金となる?メカニズムが知りたいところです。)

それでも、痛み止めを最大限投入し

1〜3日でケロッとしてしまうパターンなのが救いです。


私のリウマチは、変形の強いタイプだそうですが、

現在リウマトレックスでほぼ安定、生物学的製剤の使用には至らず。

家事などの余力を作るため必要を感じたら、最小限の鎮痛剤併用。

とにかく、痛いのはホントに嫌なので、

痛みのコントロールを最重要事項として生活しています。

 

(2005年 記)

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以下、折にふれ現状を追記。


<2008年11月>



2008年6月より、生物学製剤「エンブレル」を開始。

3週ほどで効果が現れ、3ヵ月後の検査でCRPは1.0未満に落ち着きました。

10年以上服用し続けた痛み止めと胃の薬は、その時点で一切不要になっており、

リウマトレックスも減量へ。週8→6→4mg(現在)。

下痢は以前ほどの頻度ではなくなり、下痢した際の炎症は起こっていません。



 

<2011年3月>


上記から数ヶ月後、脱リウマトレックスに成功。

エンブレルについても

CRPマイナス(0.5以下)とMMP-3基準値内の保持が安定し、

週2筒から週1筒へ、そして現在は10日に1筒の投与で安定。

以前のような下痢→炎症という症状は皆無です。


〜人工関節について〜

3箇所(左股関節と両膝)のうち、股関節はすでに1度入れ替えてあります。

最初の、左人工股関節全置換術後、痛みが消え不自由なく歩ける嬉しさに

リハビリ、特に筋トレをけっこうハードにやりながら

階段も普通に駆け上る&下りるほど、酷使してしまいました。


それだけが理由ではありませんが、わずか5年で再置換。

これは、人工部分の磨耗や不具合ではなく、

日常生活での荷重のため骨頭が徐々に内側へ入り込み、その分

大腿骨内のステムの先端が、外側にずれてしまい

大腿骨を突き破る(骨折)危険が生じたためでした。


再置換時には、かなり進歩した人工股関節が開発されていたので

8年近く経つ現在も、不具合は一切ありません。

が、再々置換をできる限り避けるため、

また、右膝も(人工部分が骨に食い込んできて、ぐらつきが出ている)

再置換をできるだけ先延ばしするため、

最も影響の大きな“階段の昇降”は、可能な範囲で回避しています。

また本来は、杖の使用も下肢関節の保存に大切なことではありますが、

私の場合、上肢関節の破壊との兼ね合いで、杖(プラットホーム型)は

下肢手術後しばらくの間と炎症状態から歩行困難に陥った時

(どちらも過去になりますが)以外、

通常一切使用していません。


以上、入院記を書き進める中で触れる内容のため

これまで記述しておりませんでしたが・・・

入院記の続きをなかなか書く余裕がなくなっているため

ここに記しておきます。



<2014年12月>



6月に右人工膝関節再置換術(詳細はブログに記載)、7月末に退院。

以後大変順調で、ほぼ左右の傾きなく、すたすた歩いています。

(で油断して11月、つまずいて転倒。両肘を突き地面にうつ伏せ状態。

幸運にも、肘の擦傷だけで済みました。)

といっても足部に関しては、オリジナル足底板入りオーダー靴であればこそ。

違和感も痛みもなく歩けるのですが。

階段も、段差の低いものであれば苦労なく昇降できます。

が、今後はもう再置換が必要とならぬようとにかく温存のため、

やはり階段は、可能な限り回避です。

杖もこれまで通り不使用。というか、もう上肢が壊れていて無理です。

薬はその後、エンブレル2週に1筒となったものの、リウマトレックス復活。

現在、エンブレル月に1筒・リウマトレックス週6mg(+フォリアミン)で安定。

CRPマイナス、MMP-3正常値、腎機能肝機能他全て正常。

時々検査する膠原病関連の項目も異常なし。

唯一、リウマチ因子のみ、正常値まで下がったことがありません。

 

人工関節とエンブレルと靴型装具のおかげさまで、

安定した体調で元気に暮らしております。

足部変形で靴にお困りの方は、ぜひこちらに相談してみてください!

(のちほどリンクさせますので、とりあえず検索してね。)

ドイツ足の健康館 赤い靴


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