2008年
1月号
いまごろは伐られつくして朽ちたるや 球場をいだきつづけし蔦よ
この蔦がなくなるといふ哀しさに友はこつそり挿し木したとや
絶やさるる運命なればと初秋の勝利に酔へるひとをそそのかす
酔ひにまかせ夫の手折りし一枝に新芽の緑のつややかに出づ
甲子園球場の蔦絶やされず 蔦盗人の庭に根づけり
ぬばたまの闇に眠れよをとめらよ身のうち深くに母性はぐくめ
2月号
なにゆゑに井守などをと問はるれば迷はず答ふ寿命三十年と
さりとても捕獲されたる齢不詳二匹を買ひしに余命を知らず
思考する愚に飽いたるか水底のちさき恐竜おほあくびせり
水面にみなわ消ゆるを見届けしゐもりの四肢が夜半にふと浮く
まなこ開け闇の手ざはり持つ皮膚を夜気にさらして闇をまた吸ふ
前肢のしぐさはヒトの児のやうでかはゆしと思ふはつまり自己愛
3月号
衰へたる表情筋をきしませて職人なりし舅がゑまひぬ (舅/ちち)
手術室前ベンチにて署名する 父の片あし葬る書類に
目覚めたるちちのなづきに右足はかはらずに在り脈打ちゐませ
火葬とは訣別のための訣別と 潔く人のかたちを壊す
眼前の白き卓布のただ中に喉仏として父は坐しむ (坐しむ/いましむ)
のど仏その名の由来知りそむる舅の遺骨のかたちしるけく
4月号
火を使はぬ退化の末の種族らしオール電化に暮らすわたしは
冬天をあふぎ月光呑みくだす しきしきしきと体内凍る
ゆたかなる寝言いふひとの横にゐてそはただひとり吾に刻まる
朝まだき「じまんの背びれを披露する季節がやつてきた」と言はれぬ
謎めいたることばのゆくへ追ひ詰めむ凝視のすゑの闇あをむまで
うつし世にしるし残さぬいとなみよ生まれては消ゆ夢もねごとも
5月号
空襲の記憶を母に呼び覚ましのどかにひびく正午のサイレン
木場の川につぎつぎ人の飛び込むを見しと語りき母は語りき
空襲を父母生き延びて吾在るとさんぐわつ生まれは今年もおもふ
はなぞののゆめふくふくと眠りゐる春の黒つち爪にひそめる
北国に実りし種子よあまやかに褐色の夢みつつとろけよ
春蕪のパールの照りをぎちと積み土埃たて軽トラのゆく
6月号
眼球の露出部分からわたくしはぱさぱさの存在となりゆく
ハイヴィジョン画面の九寨溝のみづあをく湛へるまなこやあはれ
道路つくることしか言はぬ貌映し涸渇きはまるドライアイかな
十六のわれの読みたる『二十歳の原点』姪は知らずはたちに
てのひらに淡いピンクは溶け去りぬ少女の夏の紙せっけんの
金管に九年なじみし汝が指を「やあ、おかへり」とピアノは迎へむ
7月号
ゆきゆけどわれの右舷はただ光 単なる純なる黄と空色の
花水木の白うすべにを咲きつらね街は恋する乙女となりぬ
東へ 両のミラーに眩む目のわれは二つの夕日もつ馭者 (東/ひんがし)
のびやかに枝はひとしく天めざす 或る理想とはけやきのかたち
おとがひに泣かぬ気持ちを集めゐる青葉かげさす美しき横顔 (美しき/はしき)
水槽にみづを放てば水草は水面の丈のままに伸びゆく
8月号
しろがねの茶匙ひとつの重き朝そらの鈍いろ凹に集めむ
錆びいろの冷たき記憶よりはるかたよりなく鉄棒は佇ちをり
しらじらと曇れる下にあを鈍き葉群は<せいひつ>とふ音こぼす
すくと立つ青年のごとき百合の木の抱擁享けよ、うつむく乙女
篠懸のはだへの地図に山脈は裂け目に生れしししむらの色 (篠懸/すずかけ)
ゆりのきの若木を抱きし二の腕の内に残れる樹皮のざわめき
9月号
老衰のうつつをあはく眠りゐる猫の鈴の音なき五月闇
仔猫なりし汝を愛でにし夫の手にただいつまでも撫でられてあれ
死にちかき猫の泪をぬぐひしにかそか粘性ありてかなしも
汝が面(おも)の遺影となるはかなしきにせめて汝が爪三日月を撮る
息絶ゆと知らせたまへる姑(はは)の声のかなしみに滲む疲労と安堵
水無月の底をなまなま横たはるこころに銀鱗生えくるを待つ
10月号
右耳に忍びこみたる水道水一滴にわが世界くるひぬ
体内の異物によりて異世界に在れば<諦念プシガンガ>唄ふ
地下二階より昇りくるわが車を炎天の下ほうけて待てり
ぬるきものたらと洩れたるここちして拭へば耳朶を夏の風過ぐ
熱帯夜のうなじが髪に刺されゐる この無数なるわが身の先端
日焼けせし夫の塗りたるカラミンの近江兄弟のにほひに眠る
11月号
夕星の空をかよへる風の下ゆく飛行船ゆらりかたむく
糠床に胡瓜しづめるわが腕のうちがはの静脈のみづあさぎ
水苔のそよぐしとねに沼海老はあふむけに寝ね殻を脱ぎをり
水槽にみづの気化する速さ見ゆ ながきながきながき手紙読みたし
左耳世界に満つる生物の気配がるるるがるるる眠る
ゆつくりとしづむ右耳 テンピュール枕の底に凝れる静寂
12月号
ヴェンダースの天使おもほゆ図書館に団塊世代の人らいませば
「日本人ぢやなきやとつくに暴動を起こしてるよね」ケーキほほばる
嗚呼ジュリーがピンクのズボン樽腹に穿いて勝手にしやがれ唄ふ
家家の門扉のかたへに金木犀生ふる小さき町と出会ひぬ
「ゆつくりでいいですから」が口癖のレントゲン技師異動せしとや
設計の精緻きはまるうづまきの力学のあり 薔薇はひらく
薔薇/さうび(そうび)
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